陰陽道について

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陰陽道について

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陰陽道の暦道や占術、祭祀は、古代中国から日本に伝わった「太一陰陽五行思想」を基盤とし、安倍晴明公によって体系化された、森羅万象の成り立ちや因果関係から運気を判断する思想や理論から成り立っています。干支(えと)や恵方、暦の吉凶もその理論に基づいています。

実は、平安時代から続く陰陽道の思想や理論は、華道、茶道、書道や剣道、また能、歌舞伎などの伝統文化、そして、日常の様々な風習、習慣、節供等の年中行事として、私達日本人の生活の一部として広く浸透し伝承されています。

陰陽道の歴史と土御門神道

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陰陽道の根底にある思想が、古代中国で成立した「太一陰陽五行思想」です。これは、「陰陽論」と「五行説」とを組み合わせて、宇宙から人の運命にいたる全ての現象を説明しようとする理論です。

「陰陽論」と「五行説」は、それぞれが別に成立したものですが、中国戦国時代の思想家 鄒衍(すうえん)が、この二つを融合させました。これは中国のあらゆる思想・哲学に影響を与え、日本の陰陽道の基礎理論となりました。

また、古代中国神話に登場する神である伏羲が書いたとされる東洋最古の書物「易経」より、太一(太極)は、宇宙の根源とされています。

日本書紀によると、「太一陰陽五行思想」が初めて正式に日本に伝来したのは、継体天皇7年癸巳(513年) の7月に百済の五経博士の渡来とともに入ってきたとされています。

養老2年戌午(718年)、天武天皇によって、中務省の管轄の下に陰陽寮が設置され、陰陽博士、暦博士、天文博士、漏刻博士、その配下に陰陽師等が置かれ、天文・暦数・風雲の気色等を常時、観測・占筮し天皇に奏したり、学生たちに陰陽五行思想の指導を行なっていました。

陰陽寮の初期は秦氏が勢力をもっていましたが、970年頃に賀茂忠行・保憲が賀茂光栄に暦道を、そして、安倍晴明公に天文道を伝え、ここに賀茂・安倍両家による天文、暦道の世襲支配体制が成立しました。

その後、賀茂家から暦道も安倍家が引き継ぐこととなり、天文・暦、両道の陰陽道宗家として、安倍家が確立しました。ここから、陰陽寮の長官・次官をはじめとして陰陽博士等、安倍家の世襲が始まります。

室町時代には、安倍晴明公以降、陰陽道を家学として継承していた晴明公の嫡流が、他の公家同様に、本姓の安倍を用いず、土御門という苗字を用いるようになります。

土御門家が継承してきた陰陽道は、幕末にかけてさらに全国に広まっていきました。しかし、明治維新を経て、陰陽寮の廃止と、天文学・暦学についての、大学校(東京帝国大学の前身)下の天文暦道局への管轄の移行、さらには、天社禁止令により、陰陽道自体が禁止となりました。

それでも、陰陽道は土御門家によって、継承され続け、昭和の訪れと共に実を結ぶこととなり、土御門範忠によって、戦後の昭和21年5月21日、現在へと続く天社土御門神道(初代管長・土御門範忠)の復興と相成りました。

令和5年、全国の多くの社寺様の暦も土御門神道によって、暦作されています。

陰陽道の歴史と後藤家

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上記の陰陽師の歴史が、現在知られている一般的な歴史である。

一方で、土御門に暖簾分けした家系や、そこに属していた陰陽師たちもいた。
その中で、藤原家の血を受け継いでいるため、武家の身分として扱われていた。
武家の身分であったため、活動資金に困らずに世間の裏で活動を行うことができていた。

しかし、陰陽道禁止令が発令され、陰陽師としての活動を禁止されたため、
使陰として名乗り、活動してきた一族である。


そして現代、その一族の128代目であり、現代の陰陽道 使陰の当主が後藤黄泉である。

末娘にのみ受け継がれてきた門外不出の修行を重ね、当主となっている。

現在も藤原氏の血を受け継いでいる仲間とも交流を重ねており、
陰陽道 使陰として活動を続けている。

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